土屋文明のプロフィル 1890年(明治23)~1990年(平成2)
群馬県高崎市保渡田に生まれる、高崎高校から一校・東大にすすむ、伊藤左千夫の家に住み込み「アララギ」に参加、在学中山本有三、芥川竜之介、久米正雄と同級生、俳句短歌、小説戯曲も書く、諏訪高女、松本高女の校長も歴任。齊藤茂吉の後を受けアララギ派の指導的存在となる、戦後群馬吾妻に疎開し万葉集の研究に専念、「万葉集私注」を出版、万葉集研究の第一人者となる。昭和38年より宮中歌会初召人となる、61年文化勲章受章。
土屋文明館訪問記
土屋文明の歌碑 《青き上に榛名を永遠の幻に出で帰らぬ我のみにあらじ》 故郷を旅立つときの歌[/caption]☆群馬には古代から古墳、埴輪、万葉の東歌も一番多く、榛名・伊香保・子持山等が歌い込まれている。
古墳時代からこの土屋文明記念館がある旧群馬郡群馬町周辺は双子山古墳・八幡山等の縄文古墳がある。関東の中心であったことは確かである。大正・昭和を代表する土屋文明はこの地で生まれ育ち、高崎高校、東京大学をへて長野諏訪、松本の高校長歴任する傍ら伊藤左千夫、島木赤彦、斉藤茂吉の流れをくむアララギ派の総帥として活躍、世界に誇る文学「万葉集」の研究に精魂を傾け「万葉集私注」を発刊した。この記念館は群馬県立で敷地も広く、緑の公園には園内には小川が流れ、文明の歌碑や群馬出身の詩人山村暮鳥の詩碑「いっぱいの菜の花—–」や村上鬼城の句碑もある。周囲を見渡せば赤城・榛名・妙義の上毛三山が見渡せる風光明媚な地でもある。館内には文明の生い立ちや作品を紹介する文明館があり、映像で文明のひととなりもわかる。展示室にはいつも群馬出身の文学者中心にバラエティーに富んだ文学作品が鑑賞できる。隣接する縄文時代の遺跡や古墳を訪ねると心が楽しくなること請け合いである。(Y.aoki 記)